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2006.09/17(Sun)
ローマ法王の発言のゆくえ
<法王発言>ソマリアで修道女ら2人射殺 背景に聖戦批判か

 【ヨハネスブルク白戸圭一】ソマリアからの報道によると、イスラム原理主義勢力「イスラム法廷連合」が支配する首都モガディシオで17日、イタリア人のカトリック修道女と護衛の男性の計2人が射殺された。ローマ法王ベネディクト16世の「聖戦」批判発言がイスラム世界で反発を招いており、法王発言への反発が背景にあるとの観測も出ている。
 ロイター通信によると、修道女はモガディシオ北部の小児病院で働いていた。背後から3発の銃撃を受けたとの情報もある。イスラム法廷連合の関係者はロイター通信に対して、法王発言に反発したイスラム原理主義者による犯行の可能性があるとの見方を示している。
(毎日新聞) - 9月17日21時36分更新

(現在ソマリアは国内にソマリランド共和国・プントランド共和国・南西ソマリアなどの「国家」や軍閥が乱立しており、さながら戦国時代の様相を見せる。ソマリアは元々氏族社会であるため、地域同士の対立はもちろん氏族同士での対立も頻発している。2006年6月にはイスラム原理主義のイスラム法廷会議が首都モガディシュを占領した。イスラム法廷会議はアル・カーイダとの関与が疑われており、暫定政権を推すアメリカとの対立は避けられない見通しである。 また、ソマリランド共和国はアフリカ諸国の中でも異例なほどに安定した経済と民主主義による政治が行われており、ソマリアとは別個の国家という認識を強めており、完全なソマリア再統一はほぼ不可能となっている。from wik)


イスラムの西欧への怨念は11?13世紀の十字軍に発しています。

ベネディクト16世が出身国ドイツの大学で引用したマヌエル2世パレオロゴス(ギリシャ語:Manuel II Palaeologos 1350年 - 1425年7月21日)について
(東ローマ帝国末期、パレオロゴス王朝の皇帝(在位1391年-1425年)。

父親の死期にオスマン帝国バヤズィト1世のブルサの宮廷において捕虜であったが、脱出に成功。早速バヤズィト1世によって帝都コンスタンティノポリスが包囲され、ニコポリスの会戦において西欧のキリスト教国軍が敗戦。もはや帝都の安全もままならなくなった。

1399年、マヌエル2世は西欧から支援を取り付けようと、イタリア諸都市国家やフランス王国、神聖ローマ帝国、イングランド王国を歴訪する。マヌエルは各地で歓迎を受けるが、具体的な援助を得られず結果としては失敗に終わってしまった。その間にオスマン軍の圧迫は強まるばかりであり、1402年になると皇帝不在の首都ではオスマン軍に街を明け渡そうかという議論まで行われていた。

そこへ意外なところから援軍が現れた。ティムールが小アジアへ侵攻し、迎え撃ったバヤズィトは1402年7月のアンカラの戦いで敗れて捕虜になったのである。その報を滞在先のパリで受けたマヌエルは帝都に帰ると、オスマン帝国のスルタン位争奪戦に介入し、自らが推したメフメト1世をスルタンにすることに成功。このためメフメト1世との間には友好関係が保たれ、オスマン帝国からの圧迫に小休止がもたらされた。

しかし、1421年にメフメト1世が死去してムラト2世が後を継ぐと、宮廷内では長男ヨハネスを中心とした対オスマン強硬派が台頭してきた。このため、マヌエルはヨハネスを共同皇帝にして実権を譲り、事実上引退した。ヨハネスは対立スルタンを擁立したが、1422年にムラト2世によって対立スルタンは打ち破られた。ムラト2世は勝った勢いに乗じてコンスタンティノポリスまで攻め寄せ、帝都はオスマンの大軍に包囲された。このため、引退していたマヌエルが復帰し、オスマン軍を外交で霍乱。オスマン軍を撤退させることに成功し、講和条約を結ぶことになった。しかし条約では東ローマ帝国はオスマン帝国スルタンに臣下の礼をとることを誓約させられた。もはや、東ローマ帝国には、オスマン帝国の顔色を窺いながら細々と生きるしか道は残されていなかったのである。

1425年7月、マヌエルは修道士マタイオスとして74歳で死去した。マヌエルは勝気な息子ヨハネス8世の行く末を心配し、「今の帝国に必要なのは皇帝ではなく、管理人なのだ」と大臣のスフランゼスに語っているほどだったが、最期にはヨハネスに「今後は、お前の好きなようにしなさい」と遺している。マヌエルは、もはや帝国の滅亡は避けられないものであると感じていたのかもしれない。実際、マヌエルの死から僅か28年後の1453年、帝国は最期の時を迎えるのである。

マヌエル2世はすぐれた文人であり、後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれるビザンティン文化最後の黄金時代を代表する人物の一人であった。帝国の維持に奔走しながら、忙しい政務の合間を縫って神学、修辞学、詩学の著作を執筆し、書簡集も遺している。

また、マヌエルは帝衣や皇冠をまとわず、喪服のような白衣を好んで身につけていたと言われ、廷臣からは悲しそうな瞳をした君主として記憶された。政治面で治績を残す機会には恵まれなかったが、したたかで粘り強い交渉者であり、「よりよい時代に生まれていたなら、さぞかし名君であったろう」と評されている。)


ローマ法王ベネディクト16世は17日イスラム教徒の反発に対し遺憾の意を表明しましたが、9月22日の新月は乙女座29度で起こり、法王の双子座29度にある火星と90度となります。
ネイタルでは魚座水星が双子座火星コンジャンクションヘッドと90度ですので元来言葉は皮肉的で闘争的であろうと思われます。しかし魚座の水星ですから、伝わりにくい、理解しにくいといった面もあるようですね。実際法王の話は難解でわかりにくいようですね。
法王の発言はヘッドとからむので大きな波紋をよぶ傾向があります。もちろん立場上からして、其の発言は元来そうなんでしょうけれど。

9月22日(金)14:20 月遠地点
9月22日(金)20:26 月赤道

9月22日(金)20:44 金環食(乙女29度)


下記のような陰謀論も出ています。

ローマ法王発言はイスラエルと米の陰謀―イラン紙

【テヘラン17日】イランの保守系紙ジョムフリは17日、ローマ法王ベネディクト16世≪写真≫がイスラム教徒と暴力を結びつけて発言したことについて、法王の発言はイスラムと米国に指図された兆候があると報じた。法王は発言に誤解があったとして遺憾の意を表明したものの、発言自体は撤回していない。
 ジョムフリ紙はこの中で、ローマ法王がイスラム教について無知とは信じることができず、この現実に基づけば、法王の発言はイスラエルと米国が記して(法王に)提出したものとだいうことになると主張。その根拠として、両国は、イスラム教シーア派武装組織ヒズボラの対イスラエル戦争の勝利を傷つけたいためだと指摘した。
 また、同国の最高指導者ハメネイ師が指名した編集長が運営するケイハン紙は、偉大な神の二つの宗教であるイスラム教とキリスト教の信徒の対立を煽るため、少数者であるシオニスト(イスラエル人)が仕組んだ兆候が幾つもあると報じた。
 ローマ法王は12日、訪問先の母国ドイツの大学で行った講義で、東ローマ帝国皇帝によるイスラム批判を引用し、イスラム教と暴力の関係について言及、イスラム教開祖の預言者ムハンマドについて邪悪と残酷と発言した。
〔AFP=時事〕

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